前回、前々回と精神障害者の『性』と『恋愛』について語ってきました。
今回は結婚について、お話しできればと思います。
『結婚なんて自分には……』
『親に反対されているから……』
と、いう方もいらっしゃるのかも知れません。
まあどうぞ、諦めや先入観もアリの状態で少しお読みくださいな。
もしかしたら(あれ……もしかしたらイケるんちゃうん……?)と少しでもお二人の門出が近づく、この記事となれば幸いです。
では、いってみましょう!
お好きなところからお読みください
結婚へ立ちはだかる障壁の類
ひとことで『結婚』といっても、それに至るまでは何重もの障壁があります。
ただ、その障壁すべてを乗り越える必要があるかというと、そうでもありません。
結婚とお金の話
人間生きてりゃ恋もする。
でも、恋する人もいるし、恋しない人もいる。
決して他人に命ぜられてではありません。
しかしながらも、当事者同士の恋愛はよくても、結婚となると、手のひらを返される親御さんたち がいるのも事実。
それに備えて、懐柔策なり経済的な基盤を用意した方がいいかもしれません、が——、
それは、無茶な話です。
生活保護、障害基礎年金や各種手当で何とか糊口を、という精神障害者も多いようですが、わたくし煙の知る限り、ほぼもれなく親なり親類なりからお金をもらっています。
——そんなにため息つかないでください。
(やっぱりか……)みたいな雰囲気は不要です。
ここでひとつ考えたいのが、国や地方自治体の社会資源はよくても、親御さんからのお金はマズいとなると、それは厳しい要求だとわたしは思います。
親御さんが「独り立ち」を求めるなら
「結婚なんてこと、独り立ちしてからいいなさい」
そんな風に、よく親御さんもおっしゃいます。
わたしも何度となくいわれました。
ところで独り立ちとは何でしょう?
正職員になって から? 奨学金を払い終えてから? 仕送りが必要なくなってから?
障害基礎年金の支給を停止してから?
健康保険証は、あなたたちの窓口負担を三割にしてくれます。
これは日本国憲法で定められた 健康権、生存権によって保障されています。
老齢年金はリタイアした後の生活も生存権によって最低限度を保ってくれます。
障害基礎年金の受給も生存権で保障された国民の権利です。
日本国憲法(昭和二十一年憲法)第25条
第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。(https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000003xfq-img/2r98520000003z9o.pdf)
つまり、国民は最低限度の生活と、そのための健康を国が保障・担保するのが第25条です(諸解釈あり)
公的扶助は、国へ課せられた義務なんですね(これも諸解釈あり)。
でもある日突然、国民皆保険でなくなったら? またある日突然、憲法が書き換わったら?
親御さんたちが、それまでの社会保障を当たり前のように享受し、けれども自腹を切ることが嫌がられるのは、たしかにご事情もあると思います。
が、時代も変わりました。なおかつ本人努力でどうにもできない部分もあります。
これを、『障害』といいます。時代が変わるのも広義での『障害』だと思います。
独り立ちって、なに。障害って、なに。
- 8時間労働がしんどい
- 立ちっぱなしだと倒れる
- 金属音が耳に刺さる
- パニック時の記憶がない
- デートすらも疲れてしまう……
障害のある方は、千差万別の生きづらさを抱えています。スタート地点に差異があるのです。
その中でも自分のことだけを考えて 『独り立ち』している方々を見ると、どうしようもなく切なくなります。
「他人に頼らず生きてゆく」、大いに結構。
「それは程度問題だろう」、ええ、まさしくそうです。つまり——、
『どの程度で独り立ちとみなすか』で生じた齟齬なんですから。
お金を稼ぐ手立てが障害されている。独居生活に障害がある。
それら障害を何ら一切、手助けなく乗り越えろ、と。
その境地へ至るまで、伴侶と歩むことを禁じられているのが、ここで例に挙げた『親御さん』像なわけですね。
彼ら彼女らの言っていることは別段ちんぷんかんぷんでありません。ただただ、悲しいだけです。
そこでお二人が
だれかに頼ったり、互いに助け合えることの方が素晴らしいじゃないか。
と、主張したとします。
これですんなり引き下がる親御さんは端から反対はしません。お二人のことが心底心配だからです。
ではどうしたらよいのでしょう。法律上、親子の縁は切れません。心配ならば勘当もしません。
根拠が欲しいのです。安心して門出を祝える証拠が。
もしくは——門出未満の出発なら、話は違ってくるかもしれません。
ある一つの突破口
どうしてもわたしたちの門出たる結婚へ「NO」というなら、事実婚という選択肢があります。
社会保険の制度上の取り扱いは法律婚(婚姻届を出すほう)と同じです。
婚姻の意志があり、同居し、同一生計であること等々を役所に証明できれば「未届の夫」「未届の妻」といった風に住民票の上でも夫婦関係だとみなされます。
特筆すべきは同性での事実婚も可能であることです。
精神障害の当事者同士の結婚をして
わたしたちは、精神障害の当事者同士での結婚でした。
とてもじゃないけど、順風満帆とはいえませんでした。
まず妻に「未届の妻」になってもらい、夫婦として歩み出したのです。
妻や向こうのご両親の心情を考えると、わたしも悔しくて、説得できなかった自分が情けなくて、一時期は自分の代わりに両親を恨みました。
妻亡き後も思い返せば、心の中で舌打ちをしています。本当に悔やむべきなのは自分の弱さなのに。
さて他方、改姓にまつわる問題、同性同士などのご事情で事実婚を選択されたカップルもい ます。
このときは着目してもいいでしょう。向こうの親、つまり舅姑(義父母)の戸籍(姻族)に入りません。
その身軽さをメリットと捉える人もいることでしょうね。
事実婚は婚姻に近いとみなされます。
よって当事者同士の事実婚は、公営住宅の抽せんでもくじを引く本数が増えます。
肢体不自由者向け住宅だって一人の時よりも狙いや すくなります。
不名誉な結婚
せっかく妻と幸せな日々を送ることができる。しかし親の反対に遭う。わたしもそうでした。
しかし、説得しきれ ないまま式の日を迎えました。
わたしの不甲斐なさ、思い切りの足りなさで、妻が子どものころから憧れていたウェディングドレスを着せてあげられなかった。
わたしたちは入籍より式が先でした。
キリスト式での(式場のバイトの神父さんで はなく、二人で礼拝に通っていたキリスト教会の副牧師先生での)挙式で、宗教アレルギーのうちの父が断固阻止の姿勢を示しました。
経済的基盤が、とか共倒れのリスクが、とか、けっきょくわたしの両親は欠席。
新婦側の親しか列席せず、友達も呼べずドレスも感動も何もないまま結ばれました。そのことは今でも後悔しています。強く後悔しています。
何度も説得したし、何度も言い争いにもなりました。妻とも父とも。家族全員と。
妻が亡くなる前、少しうつがよくなっていたときには「フォト婚しようね!」と決めていました。
夕方から薄暮時、海開き前のビーチで純白のウェディングドレス、純白のタキシード。花火を持ったりして幸せをあらん限りに楽しめたんだろうな——死ぬほどのうつが来なかったら。
チャンスは何度でも
結婚したくてもできない、精神障害者当事者のカップルへひとこと、アドバイスです。
やってみないとわからないし、人生は一回こっきり。でも、言ってしまえば、結婚は何回もできる。
それでもね、死んだらすべてが手を離れる——人間は存在として誰もが弱者なんです。
でも命ある限り、誰にでもチャンスはある。
ご両家のご両親の反発が必至で、同性間とか、改姓、または結婚を重く考えている、などのご事情のあるカップルには事実婚という手もある。昔は内縁という嫌な含みのある言い方ですが、民法上はおなじ意味です。
失敗するなとは言わないから大丈夫です。
二人きりの式でも、フォト婚でも、ドレスもタキシードも着て写真を撮ってもらって、その写真でアルバム作って元データももらって、思い出にしましょう。
それがいいか悪いかは長い時間が決めます。
ただその時に、(やっぱやめとこう……)と遠慮したり尻込みしたりすると、もしかしたら一生ドレス着られなくなるかもしれない。
お願いします。
多少の遠慮、言い出しづらさがあっても、その思い出は未来の自分を慰めるし、写真は将来の幸せにつながります。
何より、「誰かに否定されて“そう”なってしまった」経験は、ずっとずっと、あなたの心に爪痕を残すんです。
だから、今できうる最大、最高のわがままを選択してね。わたしからのお願いです。
わたしたち夫婦は、何もかもができないままでした。
妻は自らその命を絶ちました。
ドレスを着ることも、嬉しさのあまり皆の前で泣くことも、夫婦に一番大切なものを経験しないまま、天に召されました——このことは、わたしが死ぬまで後悔すべきことです。
結びに〜精神障害者が語る結婚
いかがでしたでしょうか。
反対を押し切っての、またはお二人だけでの事実婚、挙式なしでのフォト婚——。
お話ししてきたのはお二人の、イレギュラーな門出です。
でも、いえ、もちろん皆から祝福されたい、喜びを分かち合いたい、何より胸張って生きたい。そうでなくともふつうに……
そう、ふつうに生きたい。
それがどうして阻害されるのでしょう。幸せになるのは罪なのでしょうか。障害者が幸せになるには、そんなに大変な思いを強いられるのでしょうか。
しかし、現時点ではわたしたちは障害を持った時点で、より工夫された、真摯で一生懸命な人生が求められます。
健常者すべてがのらりくらりと楽して生きているだなんていいません。
それでもなお、わたしたちは人一倍しぶとく、貪欲に欲しないと、幸せだなんて向こうからやっては来ないのです。
文中にややネガティブな表現もありましたが、何にもまして「遠慮はしないこと」。
これに尽きます。
どうかお二人に豊かに幸いがありますよう、心よりお祈りします。
▼参考▼
煙亜月
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