【ご注意】
現在連載中のこれらの記事は、自ら重症熱傷を図ったわたしの体験談がメインとしています。できるだけ直接的な表現は避け、ソフトにお伝えしますが、一部刺激的なお話もあります。
これによりあなたのトラウマを掘り返し、フラッシュバック等を引き起こすことも考えられますので、閲覧の際には十分にご注意ください。
ずいぶんとお待たせをしました。
今回も『傷』のおはなしです。
いつか読めるようになるかもしれません。
読む必要がなくなるかもしれません。
でも、もしそうなれば、それはとてもいいことだなと煙は思います。
▼参考▼
今回で重症熱傷シリーズはいったんお開きです。
その最後、今号は『傷つくこと』へ主にメンタル面からアプローチしてみようかと思います。
傷の総まとめです。『いま傷について触れるのはちょっと……』という方は飛ばしていただいて結構です。
そうした考えを持ったり、拒否したり、認めないという自由意思もあなたの尊重される正義ですから。
◆!ご注意!◆
ここでお話しするのは煙 亜月個人の体験に基づく経験則です。
ご自身の傷やご病気、障害などに対する専門的なアドバイスは、必ず、絶対に、医師や看護師、薬剤師などへご相談してください。
当たり前ですけどね、一応。
シリーズ最後の記事では『あなたは傷つく価値がある』と題してお送りします。
つまり70%熱傷で得たものを振り返ってそこに価値を見出し、これからご自分を投げだしてしまおうという方へメッセージを残し閉幕とします。
——え?大風呂敷にもほどがある?
そういうあなたにこそ!最後の最後までどうぞお付き合いくださいませ!
それでは!行ってみましょう!
お好きなところからお読みください
あなたはなぜ痛いのでしょう?
そもそもなぜあなたは痛いのでしょう? そんな根源的問いから始めてゆきたいと思います。
叩けば痛い。傷つけば痛い。痛覚があるから。そうですよね。でも、なぜ痛覚なんて邪魔者が存在するのか。そこからのスタートです。
一方的な暴力・暴言も説明できるの?
できます。
それは、あなたの心と身体が傷つくことによって、あなたの深いところまでの侵襲(ダメージ)を、受けるまでもなく『逃げる』という行動の惹句になるからです。
ですので、傷つくことによりあなたは守られているともいえます。痛くなければ受け身も学べないし怪我にも気づけない。
ではなぜ一方的な暴力・暴言にも適用されるのでしょうか。
たとえばあなたがあなたのパートナー等からの暴力・暴言に苦しんでいたとします。
そこであなたが痛みも苦しみもない無敵の魔人だとしたら、あなたを守ってくれるものは何一つ残されていません。あるとしたらあなたの完全な消滅です。
痛覚はあなたを守るために存在します。
拷問のような責め苦に遭っていても、痛覚はしつこくあなたを守ろうと信号を送り続けます。それが生きることであり、逃げるための切実な手段なのです。
だから、痛覚は純粋にあなたを苦しめるためにあるといえます。
しかし痛覚はあまり賢くありません。だいたい空気も読めないし雰囲気も気にせず痛いときはすぐさま『痛い!痛い!痛い!』といい始めますものね。
『痛覚は考えることをしない』、これをまず念頭に置いていただき、今回の記事を書き進めてみます。
でも、苦痛なんて感じたくない
痛いのはいやだ!苦痛はいやだ!
大事なのは、あなたがあなたを守ろうとするか否かです。
本能的な、本態的な痛覚から逃げるのです。
自暴自棄にならずに、あなたがあなたを諦めず、逃げるためのサインだと認識し、シェルターなり病院なりへ駆けこむ。
口でいうのは簡単ですが、いざ実行しようとするならば本当に大変で困難なのは分かっています。
特に、自らの手であなた自身を終わらせようと覚悟を決めた方へ、わたしの言葉がどこまで届くかなんて……。
ですので、この記事はこれから命を終わらせようとしている方の『身近な存在、近しい間柄』の方へもお読みいただきたい記事になります。
『自分が他人の生殺与奪を負うなんて……』と思うかもしれません。
でも、大丈夫。あなたは、悩んでいる方の話をちょっと聞くだけでよいのです。
何も終わりの話についてでもなく、あそこのチーズケーキ美味しかったよね、とか、またショットバーでやらかしたいよね、とか、そういう話です。
傷つき疲れ果てた人への方策
ここにいい資料があります。
↓
▼手っ取り早く対応方法を参照されたい場合▼
『こんなの全部はできないよー!』
ですよね……わたしもできません。その深淵へ持って行かれますし、そもそもスキルがない。
でも、やれることをやるのがわたしたち人間のあるべき姿ではないでしょうか。だから支援する側は無力さ、取れる方策の少なさに苦しむんです。
全部しようと考えたあなたはとても稀有な存在です。ありがたいといえます。
この行動はできる人が、できることをしてつなげてゆくリレーなんです。次の人へ繋げたらその人は医療・福祉関係者と繋がりがあるかもしれない。
その次の人は生活保護受給制度などの社会資源に詳しいのかもしれない。
あるいは法律に強かったり、それ以外にも何かの一助となる職種かもしれない。
お一人お一人の力は弱くとも、リレーを続けていたらどこかでパズルがぴたっとハマるかもしれない。
それを信じてください。
ここから去ろうとしているその人が悩んだりためらっていたりする間に、できること『だけ』をすればいいとわたしは考えます。
あなたもわたしも、そんなに強くはないのです。
ところで筆者は
途中からシリーズをお読みいただいている方へ60秒で済む自己紹介をします。
15歳の当時、統合失調症疑い・発達障害疑いなどで精神科開放病棟に入院中、全身熱傷をやらかした訳ですが、これで得たものが皆無という訳ではありませんでした。
- 進路決定(看護大学)に関与
- 看護大学を中退後も色々あって介護福祉士を取得、さらに色々あって社会福祉士・精神保健福祉士を目指す
- 痛んでいる人への共感
- 苦痛から逃れたいという切望
- 自死遺族としての遺族感情 etc…….
一見、とっちらかっているように見えますが、トータルでいえば闘争か逃避か(Fight or Flight)において、すべてを逃避へ割り振ったのです。
それを他者へも飛び火させてしまうタチで、『逃げよう、そしてもっと逃げよう』と声を大にしていう、それがわたしの姿勢です。
『傷つく価値』って一体なに?
『もう、こんな痛いだけの人生……』
『痛みのない世界に……』
『今日も痛かった明日も痛い明後日も痛い……』
見通しのつかない人生、だれが保証してくれるでしょう。
なのになぜ終わらせてくれないのか。
副題の『傷つく価値』云々というのは、『わたしたちがあなたに見出した価値』です。大切なあなたが傷ついてでもあなたという存在を諦めきれないから。
本当はわたしもこんな『ひとを救いましょう』なんて大言壮語、いえた義理も資格もないです。家族ひとり守れずに何をいっているんだこいつは、と批判されてもおかしくない。
守る義理もない他者のことだから軽々しくいえるのでしょう、と唾棄されても不思議じゃない。
でもだからって自分がしてきた、している後悔を他のひとがしても平気かと訊かれれば、それは「NO」です。
わたしの行動原理は「痛いのが嫌、みんなも痛いのが嫌、じゃあとりあえずみんなで逃げよう」です。意見の押し付けもいいとこですが、後悔はしていただきたくないんです。
傷ついて得られるもの
たとえば――
- 『折ったところの骨が強くなる』
- 『膠原線維で傷口が補強される(傷口だったところが強い組織に置き換わる)』
- 『超回復する(PT等で)』
- 『異種感覚間可塑性が起きる(視覚の不自由な方などの触覚や聴覚などが鋭敏になる)』
などがあり、大ざっぱにいえばどれも『傷つくたびに強くなる』現象です。
『それだと余計に苦痛に晒されちゃうんじゃないの?』
その辛苦に呻吟している間はまだ『助けられる』時間を稼げるんです。もし苦痛に対して何ら抵抗もなく諦めてしまえば、その方と会うことはもう叶わないでしょう。
だから、わたしたちはその方ができるだけ我慢強く、しぶといことを切望しながら慰め、癒し、励まし、助ける時間を稼いでいくんです。
――その方にとっては地獄のような時間です。
『傷つく価値がある』——。
それは、わたしたちがその方(もしくはあなた)へお願いする、地獄のような猶予期間なんです。
今後、傷ついたことで得られたものが将来その方の強みになる、とは考えていません。とにかく今、まさにこの瞬間だけでも待っていてほしい。それで傷つくことになっても、わたしたちはあなたを希求するんです。
やりがいのある人生を
やりがいのある人生?そんなのあるの?
こんなに苦しくてしんどくて、そんな人生、もういらない。
そうしてわたしの妻は亡くなりました。
わたしはひとりのひとも救えない。
ひとりで生きてゆく意味も分からない価値もない。
後を追ったって何も変わらない。
――じゃあもう「いい」んじゃない?
その考えにいたる寸前で思い出したのが、O先生とN看護師でした。
O先生とN看護師について
ふたりは命の恩人です。
投げだしかけた、そしてそのままにしておけば確実にこの手を離れるであろう命を拾ってくれた方です。
このシリーズの第2号でも書きましたが、このふたりがいなければ今のわたしは存在していません。
妻を失い、『これ以上失うものってあるのか?』と諦観していたとき、不意に思い出したのが当時15歳のわたしを救ったふたりです。
そういえば、あのふたりには救命するにあたって得る物や失う物が希薄であるにも関わらず、全力で救ってくれた。
何のために?職責?使命感?優しさ?宣誓書?——分からない。だけど、医師や看護師の肩書がそうあれ、そうするのが正しいと思って救命してくれたんですよね。
でも、妻は去った。正しいとか正しくないとか関係ない。そういう概念が根底から覆された。
妻と結婚したときのことを思い出しました。
わたしは、自分のためだけに自分を消費するのはやめたんだ。あなたを伴侶とし、人生を、喜怒哀楽を、幸不幸を共にし、自分のためだけに生きるのはやめた。
それが今もわたしに根付くのであれば、O先生やN看護師のように、誰かのために生きてもいいんだ、自分の悲しみや消えたさより他者の人生を優先したっていいんだ。
「――でも万人がそんな献身的な行動をとるわけじゃないでしょ?」
行動を起こすひとだけが該当します。
でももしかしたら――
あなたのためにそうしたいと願っているひとが、このページを見ているかもしれない。そのひとは、厄介ごとに関わるのを躊躇しながらもどうにか救えないかと悩んでいるかもしれない。誰も趣味でこんな記事読んだりしません。
でも、どんな悪趣味のひとでも目の前でひとが去ろうとしていたら物凄く戸惑うはずです。
さらにいえば、後先考えずに救うでしょう。ここで楽になった方がいいかもしれない。100人いたとして、100人中2,3人かはここで楽になる方がいいのかもしれません。しかし、生まれた以上、この世に生を受けた以上、去った方がいいひとなんていないんです。
なおわたしは「大往生」という言葉が大ッッッ嫌いです。
ホントにその時に去ったのはちょうどよかったの?ホントに去るべくして去ったの?やり残したことがひとつもないの?もう、去ってもよかったひとなの?
同時に、「早すぎる死」も大ッッッ嫌いです。
早すぎるっていって、じゃあ適切な去り時があるの?その適切な去り時にわたしたちは歯向かうことはできないの? 早かろうが遅かろうが、そのひとに「君もう明日から来なくていいから」って誰が、何の、どんな必要で、どんな権限でいうの?
その幸せは他者の定規で測れるはずもないんです。
いつだって、去るときは悔しいものなのです。
去った方がいい人生なんて、わたしたちが決めたらそれは『極刑』です。
あなたは傷つく。そして、いつか治る。治らずとも以前よりは良くなる。
こんな仮定の、空想上の話を信じてください。お願いします。あなたの傷は無駄でも無意味でもないんです。周りの誰かや、ご自分を信じた証なんです。
おわりに
いかがでしたでしょうか。
このシリーズでは様々な方面から“傷”についてお話してみました。
読むにもしんどいシリーズとなったと思います。
勇気が必要なくだりもあったかと思います。
書いた側としては(これがなにかの益となりえるんだろうか、だれかの為になりえるんだろうか)と不安な部分もありました。
それでもシリーズ全4号、お付き合い頂いた方に少しでも役に立てればと祈っております。
何よりも、あなたの心が晴れますように。
それでは、またどうぞお越しくださいませ!
▼参考▼
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煙亜月
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