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トークンエコノミー法とは?|精神科病院の中庭で重症熱傷を図って〜その2

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【ご注意】

今後の記事では、自ら重症熱傷を図ったわたしの体験談が主となります。

できるだけ直接的な表現は避け、オブラートに包んでお伝えしますが、それでも一部刺激的なお話もあります。

この記事によりあなたのトラウマを掘り返し、フラッシュバック等を引き起こすことも考えられますので、

ご閲読の際には十分にご注意ください。

 

みなさま今日は。ライターの煙亜月(けむり・あづき)です

 

前回に引き続き、15歳で重症熱傷を自ら図った経験から得たお話をしようと思います。

 

▼参考▼

70%熱傷|精神科病院の中庭で重症熱傷を図って〜その1

 

精神科と救急科(両科とも比較的軽度・回復期にある場合)、全く違う診療科目であるのにとてもよく似た方式で患者さんの治療意欲を引き出しています。

 

『トークンエコノミー法』。

 

詳細を思い切り省きますが『いいことをするとご褒美がもらえる』システムです。

 

「頓服なし、がまんなしで◯日すごせたら2泊外泊していいよ」とか、「歩行訓練で◯メートル歩けたらポータブルじゃなく共用のトイレに自由に行っていいよ」とか、意欲が頑張りにつながり、頑張りが治癒につながるというシンプルな条件付けです。

 

わたしも今にして思えばICU、救急病棟でトークンエコノミー法だったのかなあ、といった動機付けを受けていたわけですね。

 

そんな治療過程で『ご褒美』もあったのです。今回はその『ご褒美』も交えてお話してみますね。

 

そして熱傷は身体だけを傷つけたものではないことも、お話してみます。

 

熱傷は、痛いです。ものすごく痛いです。その痛みが心にも傷をつけ、人を、社会を動かすこともあるのです。

 

では諸々、一気にいってみましょう!

死線は越えて~ルポタージュ⑥~

ICUでは毎日毎日吐いていました。

 

それでは鼻から挿れた経管栄養も意味がない。内科医往診で「胃潰瘍じゃないの? とりあえずスコープする?」と胃潰瘍を疑われ、内視鏡検査をする段取りとなりました。

 

ところが検査を終え内視鏡の抜管時、経管栄養のチューブも一緒に取れてしまいました。

 

幸いにして胃潰瘍などの所見はなく、鼻の栄養のチューブが取れると異物のストレスがなくなったのか、その日の晩ご飯のおでん、もりもりと食べました(あまりにも食べ過ぎて少し吐きましたが)。

 

一般的に病気やけがは発症から

 

  • 2週間程度を急性期
  • 1か月以内を亜急性期
  • 1〜2か月以内は回復期

 

をそれぞれ指しますが、わたしの場合、ICUを出て救急一般病棟というところへ転棟したのが、4週間目。4回の植皮術を終えたあとです。

時期的には亜急性期から回復期への過渡期といえます。

 

「えー! 一般病棟じゃないの?」と当時はむくれてもみました。歩行器を使ってある程度は歩けて、ある程度の日常生活動作ADL、Activities of Daily Living)は回復していたので一般病棟に移りたかった。

 

だって救急病棟、老朽化が進んでおり、なんとなく暗かったから(そしてなんとなく怖かったから)。

 

救急一般病棟で療養すること1か月で退院。ドラマと違ってお見送りや花束はもちろんありません。

 

それからです、本当の『治療』は。何年にもわたる治療――終わりが見えない、けれど終わってほしくない、そんな治療の始まりでした。

 

病院の廊下

 

熱傷再建術で再入院

最初に搬送された病院を1泊で退院ののち、ここのICUに担ぎ込まれてから2か月がたちました。

 

2か月後退院ののち、3か月程度でしょうか。こんどは熱傷再建術で再入院しました。一般病棟がホテルなみにきれいで驚いたのを記憶しています。

 

リハビリはごく早い段階で行なっていました。「促通反復運動」といって、理学療法士(PT)さんによって行われました。確か救急一般病棟の在院時にはすでに施術していただいていました。負荷もなく、ただPTさんがわたしの脚を動かすだけ。あれ? これなんて別に運動にもならないのでは? と当時は不思議に思っていました。

 

「促通反復運動」とは簡単にいうと「(四肢などが)動けない状態が長く続くと神経も弱るため、大脳から脊髄までの神経経路を維持する運動」となります。大雑把にいうと中枢から末端まで、神経がなまる前に脚を動かし、神経に「起きろーっ、脚を動かすよーっ」と外部から号令をかけ続けるわけですね。

 

もちろん15歳のわたしにはPTの先生に何をされているのかよく分かりませんでした。植皮が生着するまで動かせない腕や体幹その他を除き、唯一動かせるのが脚だったので促通反復運動も脚に集中したのでしょう。

 

そのPTさんが施術の間じゅう、院内のお見舞い向けの洋菓子店がいかに美味しいか、あそこの角のラーメン屋のスープにどれほど感動したかと力説して、ああ、もう何でもいいから早くワッフルか餃子食べたい……と強く思いました。

 

これも広義のトークンエコノミー法だったのかなあと今では顧みています。いやあ――それにしても、ワッフルが、食べたい。食べたい。食べたいって一度思ったらもう頭の中ワッフルワッフル、ワッフル音頭

 

しかしそのためには、嚥下能力を向上させ、むせることなく・吐くことなく、十分に消化し下部消化管も問題なく通過しないと給食以外の間食の許可は下りないので、精力的にリハビリに励みました。

 

意図的なのかどうかはさて置き、PTさんの「ワッフル動機付け(?)」は大成功していました。

 

 

ワッフルのために〜トークンエコノミー法

経管栄養のチューブがなくなった後は急激に体重も取り戻しつつあって、リハビリテーションルームでの動きも俊敏、PTさんに「ちょっとちょっと、ゆっくりね? ほんとにゆっくりね? まだまだ受け身できないし僕も君の全体重は支えきれんかもしれんよ?」とたしなめられるほど。

 

車いす自走に始まり、支持なし立位、平行棒での歩行訓練・階段昇降、専用のゴムバンドを使った筋トレ、瘢痕拘縮によりせばまる関節可動域ROM、Range of motion)へ対抗するように伸張の運動、などなど、

 

すべてはワッフルのために。

 

●階にある「パティスリー●●」の、ワッフルを。

 

ワッフルを食べるために。

 

がんばりましたとも、ええ。自分で火着けといて「がんばったよ」というのもおかしな話ですが……

 

あ、いえ、甘いものい飢えてたんです、ええ……。

 

そして念願叶って「病院の建物の中なら車いすで自由に動いていいよ。ただ自立はダメ。おやつもいいけどご飯とかリハとか部長回診には絶対遅れないように」とのお言葉をDr.よりいただきました……!

 

これが『トークンエコノミー法』なんですよね、たぶん。いい患者であれば行動範囲も広がるしワッフルも食べられる。

 

「努力に応じて報いがある」のは、確かに行動は変えられても人格、心理面へは到達できないとか色々ありますが、この場合ワッフルとリハは互恵的関係にありましたwin-winということです。

 

 

1月3日といえば~インターミッション③~

1月3日は自分の70%熱傷の受傷記念日であるより前に、亡き妻の誕生日なんですね。わたしが15歳、重傷熱傷を負った日に妻は18歳の誕生日を迎えました。

 

▼妻との話しは、下記シリーズにて▼

精神障害者が語る恋愛・結婚・性についてシリーズ

 

当時の妻は音大への進学が決まり、人生の中でもフルに近いほど忙しかったことでしょう。

 

それがどうという訳でもないのですが、1月3日がただ火傷した日である以上に、妻へのプレゼントを考えて用意し、「おめでとう」と渡して横目にちら、と反応をうかがうなどというものすごく楽しい日となりました。

 

あまり大手を振って笑えない日、ってあるじゃないですか。

 

古くは100年前の関東大震災(1923年)。911(2001年)に311(2011年)など。

 

なお、天気予報では『明日も【良い】天気でしょう』とするのは、本来なら失敗に近い言葉選びなんだそうです。より良いのは『明日もお天気でしょう』。

 

この違い、お分かりいただけましたか? 『良い』天気があるなら自動的に『悪い』天気もあるんです。

 

つまり「『悪い』天気の日に〇〇をしたら失敗しそう……」と不必要に『忌日』を作っているんです。『お天気でしょう』でいいんです。

 

わたしも1月3日にあまりよくないイメージを持っていました。しかし妻と出会って1月3日が楽しみになりました。自分も成長できて、生まれ変われたんだと思います。

 

これをトークンエコノミー法と呼ぶには障りがあるでしょう。

 

自分の火傷をした日を妻とはいえ、ひとの誕生日で打ち消すのだからあまり褒められたものではない。何回も何回も繰り返し否定しても、やはり妻の誕生日はいいものです。嬉しい。自分が火傷したとかどうだとか、そんなのは薄れてしまう。

 

 

っていうかアンタ~ルポタージュ⑦~

そうでした。すっかり忘れてました。自分、命を絶つつもりで火傷したのでした。忘れなきゃ生きてゆけないことも人生にはあろうかと思いますが、これ(火傷の目的)を忘れたらちょっとヤバいです。寝ても覚めてもワッフルワッフル。だ、大丈夫なのか、このひと。

 

しかし、心配には及びません。

 

わたしの最終学歴は大学中退です。看護学部でした。何の自慢にも安心材料にもならないですね、ええ。

 

熱傷を受傷した翌々年度、通信制サポート校というところに籍を置きました。

 

遠隔地の通信制高校と業務提携した予備校で、その高校のカリキュラムに沿ったコマを予備校で履修すると、高校での単位と同じだと見なされる、そういうところ。

 

不登校だったり、サッカーなどのジュニアプロ、芸能関係の方、高校中退だったりと、そんな事情も学力も千差万別で、大検・高認を目指したり、また本気で(推薦・AO・指定校・自己ではなくセ試・共テを受けて2次に進んだり、また私立なら一般日程を受けたりで)大学進学を目指す生徒に混ざって勉強を始めました。

 

わたしも高卒資格だけを目指していたわけでなく進学も希望していたのですが、3年制は体力精神ともに難しい、けど学費の面で魅力的――と悩みました。が、最終的に私立4大の看護学部看護学科に進学しました。

 

 

熱傷から21年間で自分でも驚く人生を過ごす

――考えてみれば熱傷再建術などで入院中に出会った先生や看護師さんの影響でした。

 

「治しても治しても治らなかったら?それでも治す」。

 

そういい切ったO先生も、入院のたびに受け持ってくださった看護師のNさんも今どこで何をしているか見当もつきません。

 

ひとついえるのは、わたしの命が絶えても絶えなくても、O先生はO先生で、看護師のNさんはNさんのまま。何にも動じず何にも負けない。

 

不変の真理のような「強さ」があったと思います。「やさしさ」もだけど、「強さ」「弱さ」を庇ってくれる守護者のようなもの。

 

『弱さ』があるからこそ~」とよくテレビでいいますが、大前提として「負けない、へこたれない、くじけない、折れない、曲げない、すくまない、諦めない、おびえない、不安がらない……」といったものを体得していないと口にできる言葉じゃないんです。

 

わたしは看護の道はメンタルの弱さで閉じましたが、今からでも、少しでも、誰かの役に立つ、誰かのために機能することは可能だと思っています。

 

7年半勤務した介護施設をヘルニアで辞めた今、障害者施設での支援員・指導員を狙って就職活動をしています。

 

――まあ、O先生や、Nさんに褒めてもらいたい、そんな他愛もない動機も確かにあるんですよ。でもそれがいちばん濃くて、強烈な動機です。

 

O先生もNさんもびっくりすると思います。わたしが看護学校行って、介護福祉士取って、中退したけど団体職員やったり、介護施設で7年半働いて、ヘルニアになったかと思えば支援員・指導員目指して、さらには通信制大学で社会福祉士取るとかいって。おふたりとも、腰抜かすと思います。

 

何より、

 

この一連の記事が今から21年前も昔の火傷を主題としていることに。

 

わたしもいま腰抜かしました。

 

PTSD・心的外傷後ストレス障害~インターミッション~④

明言することもはばかられるのか、言及しない方が犠牲者のためなのか。

――自分は、嫌です。話したくありません。

 

それでもこうしてタイプしているのは『そういう“方法”』が社会から、皆の発想から消えてなくなればいいと思うから。じゃあなんで書くのよ意味わかんない思い出すじゃん。確かに。そうおっしゃる方もいます。当然います。犠牲者の方、ご遺族の方、救命された方……。

 

だから、その痛み、苦しみに恐怖を覚えてほしい。体験できなくても身の毛がよだつ恐怖を想像してほしい

 

灼けて絶命するのは人間が感じる中で最も痛い命の終わり方です。それ、つまり焚刑(火炙り)という刑罰は魔女狩りで実証された見せしめ効果の最も高い、恐ろしくて、残虐極まりない最低最悪な最期なんです。

 

わたしもいまだにPTSDが続いています。PTSDは1か月で終わる方もいれば、50年以上続く方もいます。イラク戦争に従軍した米軍兵士は、その戦死者数の4倍の数の方がPTSDで自ら命を絶っています。

 

わたしは現在進行形で21年間、PTSD患者をやっています。

 

X(Twitter)でも火傷関連の語句は徹底的にミュートしています。怖いんです。心の底から。

 

光景を想起するなど比較的軽い場合もあります。

 

それより強いのが、夜寝るときに眠りに落ちようとして意識を手放すその瞬間に『ハッ!』と、何の光景か、どんな音かも分からないのですが、純然たる恐怖がやってきます。

 

びっくりしたけどとにかく寝直そう、そう思って、しかし寝ようとするたびに何度も何度も来るんです。夜驚か何かのように恐怖がしつこくしつこくまとわりつくんです。それが嫌で嫌で、夜通しコーヒーを飲んだり、ほっぺたを叩いて眠りに入るのを拒否した夜もざらです。

 

『熱傷以外ならいいよ』などとバカげたことをいっているのではありません。

 

分娩でもその激痛でPTSDになるほどです。

 

人間には火も刃物も索状物(細長いロープのようなもの)も銃弾も使えます。他者を苦しめる手段の豊富さにここまで秀でた生き物も人間くらいのものでしょう。

 

わたしもあなたも、地球上で最も多種多様な他者への苦しめ方を知っている存在です。

 

苦しめ方を知っているということは、ご自身が楽になれる方法もたくさん知っているという逆説があると思います。

わたしは15歳のとき最終手段に打って出ましたが、この通り。まったくもってうまくいきません。それに、2012年の大阪府の調べ*¹ではわたしのような事をしてもわたしのように助かる率の方が高いんです。

メスは切れ味鋭いですが、治すために切ります。あなたに「よくしてあげたい」「力になりたい」、そんな声が聴こえてくることを切に願います

 

「恐怖」とは~今日のおわりに~

いかがでしたでしょうか。

 

今回は煙亜月が少々荒れておりましたこと、申し訳なく思います。平にご容赦お願いいたします。

 

いくらその責が自分に帰するものであれ、怖いものは怖いんです。ほんと、身勝手なことをいっているようで恐縮なのですが。

 

テレビでイラク戦争のことを流していまいた。米陸軍の佐官クラスのある将校が毎晩毎晩、無線での部下の最期の言葉(「助けて!」だったそうです)がこだまして……という典型的なPTSD症状を呈していた、と。佐官(少佐とか大佐とか)というと数百から数千人規模の部隊を指揮し、首席幕僚や参謀長を務めるエリートです。間違いなく職業軍人で、日本でいうと大企業の役員会に出るくらいの偉い人です。

 

そんな人でもPTSDを発症する。

 

恐怖は生き物のもっとも原始的な感情です。『食べること』ではありません。あれはフィクションです。

 

あれになぞらえていうとべられてしまう恐怖』こそが最優先事項であり、その恐怖からの逃避が第一に行うべき行動です。食べるのは二の次です。

 

恐怖ほどなじみ深い感情はなく、克服しにくいものはありません。

 

「恐怖症性障害」というものがありますよね。高所恐怖症、閉所恐怖症、尖端恐怖症……学術的に認知されているものだけでも200種以上あるとか。でも、それらも克服してゆかねばならない。

 

何かの目標へ向けた動機づけ、それに「ご褒美」を用いるのはナイスアイデアです。なぜなら「動物的に嬉しいと感じたら、本能が目標へまっしぐらになる」から。

 

恐怖で人を動かせるけど、対抗し、克服しようとする信念や、それに伴う楽しみがあれば、わたしたちは思いのほか強い存在なのかもしれません。たとえばO先生や、看護師のNさんのように。

 

 

また長めの記事、それも恐怖に偏った記事となりました。

 

今日もお付き合いいただいた方には感謝申し上げます。次回こそポジティブな記事を書けるよう頑張りますので応援のほど、よろしくお願いします!

 

またお会いしましょう。

それまでどうか、お元気で。

 

▼参考▼

精神科病院の中庭で重症熱傷を図ってシリーズ

 

参考文献:大阪府|自殺未遂者実態調査報告書

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煙亜月

15歳で入院中の精神科病院にて焼身自殺企図(70%熱傷)。計8回の全麻下植皮術・熱傷再建術をおこなう。自家移植が不可能となり、通信制高校入学。看護大学に事実上2浪し入学するも中退。B型作業所にて労作しながら精神科入退院を繰り返し、障害者枠で団体職員。契約期間満了で離職の直後に結婚。障害者枠で介護施設に就職。在職5年目ほどで介護福祉士試験合格。妻が投身自殺企図(既遂)し、自らは腰椎椎間板ヘルニアで介護施設退職。今後デスクワークで食うべく社会福祉士・精神保健福祉士の取れる福祉系通信制大学に入学。在学期間中の生計を立てるための職探しも並行しておこなっている。


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