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結婚を機に人間関係がどう変わったのか?|精神障害者が語る恋愛・結婚・性について4

  • 最終更新日:
ブラウンを基調としたヴァージンロード
こんにちは。ライターの煙亜月(けむり・あづき)です。

 

今回は結婚を契機に変わった周囲との人間関係を、自分自身の経験などを踏まえつつ、少しお話をしてみたいと思います。

 

好きな人ができて、紆余曲折ののち結婚し、そして周りの見る目が変わる。

 

ただし、嬉しいことばかりでもありません。

 

今回は夫婦というより夫婦を取り巻く人間関係にスポットを当ててみたいと思います。

 

では、参りましょう!

それぞれの両親と

わたしたちの両親は、ともにそこそこ歪んでいました。

 

少なくともわたしからはそう見えていました。

 

妻の方も(妻が嫌な思い出を引きずるタイプだったせいもありますが)顔を合わせれば向こうの両親に「謝って」「どうしてあの時〇〇したの(しなかったの)」などと、不満が絶えませんでした。

 

わたしの方といえば、ハロウィンにはお菓子を配り、クリスマスはプレゼントとケーキ、除夜の鐘を寝ながら聞き、元旦は神社に詣で、人死ににあえば題目を唱え、宗教の勧誘には居留守を使う。

 

実家暮らしのころは何不自由ない生活と思えていました。

 

つまるところ、私の両親にとっては『宗教的行事=ただのお祭り』にすぎなかったというわけです。

 

よって、親子関係云々より先に、わたしの両親はクリスチャンであるわたしたちの「入籍よりも挙式が先」というところに何の価値も見出せなかったようです

 

宗教的な素地も関心も何もない両親には、「神様的な? 約束? 誓い? じゃ、パスで」となったわけです。

 

ちなみに、姉の挙式もキリスト式でしたが、あちらはあくまでもファッション。

 

お金の問題や病気による不安も持たず、実際的に宗教とは関係なかったため、平穏無事に式を挙げることができた。

 

そこはわたしたちとの決定的な差異です。

 

手のひらで制止するスーツ姿の男性

 

わたしの父親との平行線

挙式は4月でした。が、契約社員だったわたしは契約が更新されず、失業真っ最中でした。

 

しかし妻は仕事を持つキャリアウーマンでした。が、両親はそこは無視して「新郎が失業中であってはならない」と。

 

そんなんいうたら主夫業が成り立たんやんけ……

職業選択の自由とはいったい……

 

説得に説得を重ねました。妻にもきつく責められました。

 

しかし、情けないことに自分の父親一人の意思すら曲げられず、そのまま式に臨みました。

 

そして、式へ

わたしたちの挙式は、

 

  • 新郎新婦
  • 副牧師の先生ひとり
  • 新婦側の両親

 

以上5名

 

裏方? いません。

 

わたしの両親(というか父親)は結局、意固地になって来ず、新郎側がそうならじゃあ……と新婦側両親も平服。友達も呼べるわけもなく、実に質素簡潔な式でした。

 

親が存命なだけいいのかもしれません。式を挙げられるだけいいのかもしれません。

 

ふたりとも精神障害を患いながらも、ここまでの段取りを踏まえられただけいいのかもしれません。

 

しかし、当時の妻にそう言える方はそう多くないでしょう。

 

ウェディングドレスも着れず、あらかじめ決めていた会場も使えず……。

 

他人から「幸せになるな」とも、もしくは人格否定ともとれる文言を浴びせられ、強硬姿勢を貫くわたしの両親は『障害』にほかなりませんでした。

 

こう書いてみるとけっこう悲惨です。

 

天国に行ったら妻に土下座ののち皆に最高に祝福されたい。

 

日本国憲法 第二十四条によれば、

 

日本国憲法 第二十四条

① 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

 

と、あります。

 

たしかに、この24条の文言を素人目で見る限りでは「ふたりで勝手にやってくれ」といった態度はダメではない。

 

ダメではないけれど、限りなく冷酷ではある。

 

わたしの両親は婚姻届にすら押印せず、妻の方もじゃあ……とやはり遠慮して、結局は夫婦の友人に押してもらいました。

 

そのほぼ直後です。変化が訪れたのは……。

 

草原を歩くカップルの後ろ姿

 

 

親戚づきあい

入籍からほどなく、祖父が亡くなりました。

 

長く抗がん剤治療を続けていたのですが、全身に転移し「麻薬でできるだけ痛みのないようにしています。心の準備をしておいてください」と医師にはいわれていました。

 

聴診器と血圧計

祖父が亡くなる直前に

入籍したばかりの妻が、祖父の病室に通されました。

 

本来ならわたしの方の家族のことなど、よくは思っていないはずです。両親だってそれも承知の上で。

 

ところが妻は、祖父の顔を見ると「おじいさん」と笑みを見せました。

 

「大丈夫です、神様がとりなしてくださいます」と言って祖父の手を取ってお祈りを捧げました。

 

——当時、祖父のがんはかなり進んでおり、不随意運動も表れ意思の疎通もできない状態でした。

 

がくがくと暴れる手は離したものの、祖父の肩に手を添え、「もう大丈夫です、もう少しです」と励ましていました。

 

そのとき、病室にいた者は全員、静かに泣いていましたが、妻だけは泣くのを我慢していました。

 

妻が泣いたのは帰りの車の中です。それまでずっと、泣くのをこらえていました。

 

祖父の火葬が済み、特に近しい者だけが入ることのできる部屋へ喪主である父は妻を通しました。

 

祖父のお骨を拾いながら、妻はやっと、静かに泣いていました。

 

壁にもたれてうつむく女性

 

初めての“承認”

そののち父は「わしの親父の骨を拾わせたんだから」という理由で妻の待遇を改めました。

 

父はわたしから見てもファザコン・マザコンで、その父にとって「骨を拾わせた」のは格別の待遇だったのでしょう、わたしたち夫婦に対する態度は明らかに軟化しました。

 

しかし、それから間もなく妻は旅立ちました。

 

父自身も猛烈社員時代からずっと、心の病を抱えていたので胸中推して知るべき、といったところです。

 

つまり、明言こそしなかったのですが父も父なりに後悔していたと思います

 

それに加え、態度を改めるきっかけを外部に求めていたのでしょうね。

 

きょうだい仲

わたしには姉が一人、妻には弟が一人いて、それぞれ険悪なきょうだい仲でした。

 

わたしの姉は結婚して大阪、そののち北海道へ転勤、そしてまた大阪へ舞い戻ったのですが何も変わりませんでした。

 

べつに変化を求めてはいませんし、向こうも取り立てて気を遣うこともありませんでした。それはそれで気が楽でした。

 

つまり、縁と呼べる縁は戸籍上のものでしかなく、能動的に敵意を見せてくる人間でなかったので居ないものとして扱えたのです。双方それで問題ありませんでした。

 

妻の弟は少々厄介でした。

 

というに、妻の方から弟(および父親)への要求——車や駐車場の権利やそれにまつわる謝罪、強引な宣教など、こういういい方は感じが悪く妻には禁句だったのですが、格段に「根に持つ」タイプだったので、妻が感じるストレスはわたしのそれよりは大きいものだったかと思います。

 

弟には首を絞められたり(それがどの程度のものなのかは深くは聞きませんでしたが)、物を勝手に捨てられたりと、ひたすらに距離がひらくわたしの姉と違い、アグレッシブなきょうだい仲だと聞いています。

 

残念ながらきょうだい仲は、結婚前と後で変化はありませんでした。

 

いずれも距離はひらいていったんですけどね。

 

妻は相変わらず母親を挟んで弟に文句をいい、わたしの姉もいま大阪に住んでいるのか、それとも北海道なのかさえ把握しておらず、しかしそれについては別段不自由はありませんでした。

 

問題は妻の方です。被害的・操作的な症状があり、それらが満たされず常にストレス下にありました。

 

要するに結婚の前・後でふたりともきょうだい仲には変化がなく、ストレスはストレスのまま、無理解は無理解のままでした。

 

友人関係

持つべきは何とやらです

 

妻にはわたしより多くの友人、それもかなり懇意にしている親友が多くありました。が、その関係を続けられないまでにうつがひどくなると、どんどん友達とも疎遠になり、閉じこもってゆきました。

 

わたしの方はそもそもの友人の数が少なく、また表面的であったため、ことあるごとに「あなた、友達いないもんね」と妻にからかわれていました。

 

ネットでの友達付き合いはそこそこあるんですけどね

 

友人関係についてはほかに特筆すべき点はなく、ただただ『うつがひどくなればなるほど大切なものをどんどん失いがち』とだけいえます。

 

もちろんわたしも躁うつ症のうつ相のときには、仕事の評価も人とのコミュニケーションなど、とにかく、生きているけどでも形だけ、という状態でした。

 

そんななかでも、支えあって生きていける伴侶の存在はわたしの希望でした。拠り所、というより『巻き込まないように早く立ち直らないと』という義務感・使命感という意味合いで。

 

結局、わたしたちの友人関係はメンタル関係の友達、もしくは同級生、同窓生で後になってメンタルの苦労にこちらが気づけた友達が多いようでした。

 

頼られるのはいいけど、こちらから頼るのは本当にヤバい時だけにしよう……。

 

それがいいのか悪いのか判じえませんがその代わり、向こうも本気でヤバい時には大阪でも東京でも北海道でもすぐに発てるよう、心づもりはしていました。

 

同病相憐れむ」「傷を舐めあう」という美しい日本の文化をあたかもマイナスポイント、デメリットか何かのようにおとしめるのは簡単です。

 

でも、憐れむことも舐めあうこともできないのに、遠くからけなすのだけは単純に恥だと思います。

 

さて。

 

なんで頼っちゃいけないの?」「なんで独力じゃなきゃいけないの?」へのわたしなりのアンサーを少しまとめてみました。

 

寓話みたいなものです。

 

ちょっと神様出てきますが、サラーっとお読みください。

 

わたしなりのアンサー

例えばの話です。あなたはとても弱い。すぐ泣くしすぐ倒れる。でも誰の手も借りずにやり遂げなきゃいけないと頑張っている。なぜなら皆もそうしているから。

 

あなたはできることよりも、できないことの方が多い。誰かの手を借りればできるけど、あなたはそれを恥だと思っている。

 

地球には人間が80億人くらいいる。神様はどうやら人間を造ったらしい。80億くらいで束になってかかれば大体のことができる時代になった。繁栄、共存、滅亡。

 

ところが神様はひとりくらいしかいない。ひとりで十分に偉大だからだ。神様は80億もいらない。

 

ああ、あなたはまた失敗した。誰かに助けを求めようとしても馬鹿にされるだろう、とも思った。でも、80億もひとがいたら誰かは似たような境遇にあるひとがいるのではないか。

 

80億も人間がいるのは、神様が80億くらいは必要と判断したから。なぜかって? それは80億が束になってかからないとできない問題があるから。あなたが失敗したのは、あなたの能力ではなく人数の問題なのかもしれない。

 

あなたが神様でなければ、手を伸ばせば誰かが握ってくれるだろう。

 

神様は80億の人間の誰よりも偉大だから、80億の人間に対し何ら一切期待することができない。あなたはその80億のうちのひとり。神様より弱い。80億のなかでも一番弱いのかもしれない。

 

だけど解決策はある。明日から、80億に向かって手を伸ばすことです。

 

登山客に手を貸す男性

 

 

そして何より、わたしたち

何にもまして、夫婦の気持ちが変わりました。1Kでの同棲、事実婚時代、あまりうれしくない結婚式——。

 

それでも、わたしたちには「一緒になった」という安堵、安心でたしかな幸せがありました。

 

事情もあって妻には入籍を何か月も待たせてしまいましたが、クリスチャン同士の結婚です、霊的には式の方が婚姻届にまさったので喜びの中で食卓を囲むことができました。

 

相も変わらず貧乏でしたが、これからふたりはずっと一緒。苦楽を共にし、お互いをうやまう。順調ではなかったものの、ふたりはようやくつがいとなることができました。

 

ここからがスタートでした。

 

 

ある日の食卓、お好み焼きにマヨネーズで

お好み焼きにマヨネーズで書いた「あいしてる」の文字

(あ・い・し・て・る)

 

結びに

いかがでしたでしょうか。

 

今回は結婚を機に、周囲の人間関係がどう変わったかを簡単にまとめてみました。

 

好転するものは好転しますが、そうでないものも少なからずあります。

 

しかしどれも結婚という契機ではなく、普段の生活の中でも方法によっては変化を呼び込めたのではないか、そう考えられるものもありました。

 

たとえば日常的に、

 

  • メールをする
  • 時候の便りをはがきで出す
  • 誕生日など記念日にプレゼントやメッセージカードを贈る
  • 年賀状や暑中・寒中見舞いの類をこまめに送る
  • 距離的に近ければ実家にちょくちょく挨拶に出向く

 

……などの『忘れられないための工夫』が、ひいてはわたしたちを強く印象付けることになるのではないでしょうか。

 

交流がなければ交流しよう、変化がなければ主張しよう。

 

いずれもめんどうくさいことですが、その手間をかけるだけのものはある——そう判断されたら、自分の体調を大事にしつつ、相手のことも大事にし、孤立することを避ける、これが一種のライフラインたり得るのではないか、そう思います。

 

 

さいごまでお読みいただきありがとうございました。

 

ではまた、次の機会にお会いしましょう。

それまでお元気で。

 

▼参考▼

精神障害者が語る恋愛・結婚・性についてシリーズ

 

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煙亜月

15歳で入院中の精神科病院にて焼身自殺企図(70%熱傷)。計8回の全麻下植皮術・熱傷再建術をおこなう。自家移植が不可能となり、通信制高校入学。看護大学に事実上2浪し入学するも中退。B型作業所にて労作しながら精神科入退院を繰り返し、障害者枠で団体職員。契約期間満了で離職の直後に結婚。障害者枠で介護施設に就職。在職5年目ほどで介護福祉士試験合格。妻が投身自殺企図(既遂)し、自らは腰椎椎間板ヘルニアで介護施設退職。今後デスクワークで食うべく社会福祉士・精神保健福祉士の取れる福祉系通信制大学に入学。在学期間中の生計を立てるための職探しも並行しておこなっている。


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