生まれつき全盲の私。これまでずっと、「障害者」として生きてきました。
当然「障害者ではなかった」という経験はありません。
そんな私は、「障害」というものをどのように捉えているのか。それが今回のテーマです。
「障害がある」ということはどうしてもネガティブに捉えがちですが、ポジティブに捉えることも十分できる。
「それは個性」と捉える考え方もある。
でも私としてはポジティブすぎるのも何だか……。と、なかなか厄介な問題なんですよね。
ということで、その辺りについて掘り下げてみようと思います。
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やりたいことができない悲しみ
多くの人は目でものを見ている。
でも自分の目は見えない。
物心ついた頃から、私はその事実を知っていました。
たぶん誰かからそういうふうに教えられたのでしょう。
何となくですがそのことを覚えています。
まだ幼いながら「自分は周りのみんなと違うんだな」と感じていた私。
それを受け入れること自体は簡単でした。
それでも、見えていればどんなによかっただろうと思ったことは何度かあったと思います。
3つ年上の姉と自分とを比べて。
姉と同じ学校に通ってたくさんの友達を作りたい。
姉と同じように漫画を自由に読みたい。
姉と同じように1人でフラッと遊びに出かけたい。
でもそうはいかない。できないことが多すぎる。
「つまんない!」と密かに嘆いていたのでした。
小学生のとき、担任の先生の前で「見えてればなあ……」と口に出してしまったことがあります。
先生はとても悲しそうでした。「そういう気持ちをいつか捨ててくれたらなあ」としみじみおっしゃられたことは、今でもよく覚えています。
自分なりの楽しみ方を見つけた喜び
ただ一方で、日々幸せを感じていたことも確かです。
できないことばかりに遭遇して悲しいときはありましたが、それを忘れるくらい面白いこともいろいろと見つけていたのです。
特に12年間通った盲学校では、見えなくても楽しめることをたくさん体験しました。それに思い切り熱中しているときは、自分の障害を意識することなど全くありませんでした。
盲学校は、姉の通う一般の学校とは少し環境が違っていました。
中でも大きかったのは、「たくさんの友達と出会う」という経験ができる場ではなかったこと。
だって小学1年生のときは私、クラスメイトが1人もいなかったんですから!
先生と1対1で授業を受ける毎日だったんです!
でも、盲学校ならではの楽しさがありました。
そこで出会えたのは同じ境遇の仲間たち。彼らと過ごしていると、「私だけできない」という感覚を持つことはなかった。
点字の書かれたトランプで遊んだり、音の出るボールを転がし合ったり、視覚障害者あるあるで笑い合ったり。
見えない中での楽しみをみんなで追求することができたのです。
障害は軽減できる
「できないこと」が「できること」に変わる。
そういうことも、盲学校で経験しました。
先生方の優しい対応により、私にもできたのです!
それは、あるときふと私が「漫画読んでみたいのに!」と口にしたことがきっかけでした。
当時お世話になっていた寄宿舎の先生方が提案してくれたのです。
「それじゃあその漫画本を点字化してみようか」と。
漫画は絵が中心となるもの。だから点字化するのは難しい。
そのことはよくわかっていたので、私は自分には縁がないものとあきらめていました。
全盲でも漫画が読めた
それでも先生方は試みてくださったのです。時間をかけて、丁寧に。
思いがけない形で願いが叶い、完成した本を受け取った私は大喜び。
絵の説明文も挿入されていて、その世界観をじっくり味わえるものになっていました。
先生方には本当に感謝です。
目で見ることができないのはちょっと寂しい。
それでもこんなふうに楽しめる。
サポートしてもらうことで、また環境ややり方を変えることで、できることは増える。
障害は軽く感じられる。
この経験を通してそう気づいたのでした。
辛いことはあるけれどどんどん生きやすくなってきている
大人になった今も、障害の捉え方はほとんど変わっていません。
時には思うようにいかず辛いこともあるけれど、自分なりのやり方で前に進んでいく。
そんな生き方を続けています。
ネガティブな気持ちとポジティブな気持ち、両方抱いている自分がいるのです。
ただ子どもの頃に比べると、障害につまずくことは少なくなっている気がします。
便利な時代になり、今は私たちにとって生きやすい環境が整ってきているからです。
スマートフォンで全盲でも世界が広がった
特にスマートフォンが普及したことで、私の生活は大きく変わりました。
さまざまな場面でアプリに助けられています。
例えば紙に書かれた一般の文字が、目を使わなくてもある程度読める。
部屋の明るさなども、目を使わずに耳などで確認できる。
それまで私にとって「できないこと」だったものが、どんどん「できること」に変わってきているのです。
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また障害への理解が広がり、困ったときに声をかけてくださる方が増えているのも嬉しいところ。
全盲の私にとって障害とは何か
自分を障害者だと感じなくなる日が来るのか。
「きっとそういう日が来る」と言いたい。でも、正直「うーん、どうかなあ……」というところです。
見えていないと移動がしにくい。
情報を得にくい。
やりたいことが自由にできなかったりする。
そんな状況を改善するのは簡単ではありません。
問題を少なくすることはできても、ゼロにはなかなかできないというのが現実。
視覚障害者として生きてきて、いろんなことに慣れてきましたが、「不便だな、面倒だな、辛いな」と全く感じなくなる日はまだまだ遠い気がしています。
こうしたネガティブな気持ちは、ふとしたときに現れて突然暴れ出すから困ったものです。
でもだからといって、その気持ちをそのまま放っておくつもりはありません。それでは疲れるばかり。心がもたない。
そういうのは置いといて、せっかくだからもっともっと楽しみたい。それが私の願いです。
障害をこう答えます
そんな私にとって、障害とはいったい何なのか。
そう聞かれたら、こう答えます。
さまざまな捉え方があると思いますが、私は長年の経験からこんなふうに感じているんです。
障害は私にくっついているものだから、私の一部のように見えるかもしれない。
でもそうではないはず。
もし私の一部だったら、それがなくなれば私は別の人間になってしまうわけですが、障害があってもなくても私は私なんですよね。
障害は個性?
よく耳にするのは、「障害は個性」という考え方。
これは、「あなたのすべてが素敵。障害だってあなたの一部だから素敵。ネガティブなものなんかじゃない。どんなところも全部受け止めよう」という優しい考え方からきているのだと思います。
個性と言うのは、その人に備わった性質。身に着けている服やアクセサリーそのものは個性ではないんですよね。
自分の個性を褒められれば、私はとても喜びます。優しいとか、かわいいとか。
でも、例えば「あなたのその見えてないところ、素敵です。好きになっちゃいました」と言われたらどうか。これって全然嬉しくない。「いやいや、そこじゃないって。私を見て、私を!」と大きな声で叫びたくなります。
「なみちゃん、すごくかわいいねー!服が」と言われ、「何だ服か」と落胆したときの感覚に似ているかもしれません。
「その服を選ぶセンス」だとか、「その服が似合う私」を褒めてくれるなら嬉しいですが、服を褒められただけなら「え、それだけ?」という話ですよね。
それに障害は私にとって、あるよりはないほうがいいもの。
取り外せないアクセサリーを身に着けている私ですが、当然自分の意思で身に着けているわけではありません。
というわけで私は、障害そのものが個性なのではなく、「障害との向き合い方」が個性なのだと考えています。
自分の障害を笑い飛ばす人、全く意識しない人、克服しようとする人、武器にしようとする人、個性として受け止める人。いろいろです。
それがその人自身の選択であれば、どれも素敵です。紛れもなく「その人らしさ」です。
障害よりも、それと向き合うその人の本質が大事なんですね。
どうしても視覚障害が目立つ
ところが、人の本質を目立たせるのは意外と難しい。
私の場合も、困ったことにアクセサリーのほうがよく目立つ。「視覚障害」が大きく自己主張するんです。
私自身を隠すくらい、これでもかと。
同じ視覚障害者でも、同じ先天性全盲だったとしても、一人ひとり違う。共通しているのは障害だけ。
それでも障害が目立つから、それ以外の部分も全部同じように見えてしまうことがあります。これはとっても危険です。
だから私も人と接するときには、相手の本質をよく見ようと意識しています。
一番目立つ部分だけを見ていると、「こういう障害のある人にはこう対応すればいいんだ」などと、ひとくくりにしてしまう可能性が大きいからです。
障害をどう捉えているか
視覚障害。よく目立つ厄介なアクセサリーですが、私は今後もこれと一生付き合っていくことになりそうです。
「あーあ」という気持ちと、「まあせっかくのアクセサリーだから」みたいな気持ちと、どちらも抱きながら。
でもありがたいことに、今のところどちらかと言うと前向きな気持ちのほうが大きいかもしれません。
見えない状態で、私のような人間がここまで生きてきた。こんな貴重な経験をしているのだから、それを活かさない手はない。
こうして文章が書けるのも、この経験があったから。そう思えるのです。
バリバリ活躍している視覚障害者仲間を見ていると、うまく周囲に助けを求めながら自分の道をしっかりと切り開いているようです。とても楽しそうに。
私もそうなれたらな、と思いながら日々を送っています。
せっかく持っているこの障害、今後はどう使ってやろうか。
悲しいことや恥ずかしいことも数多くあるだろうけど、そのときはそれを文章や公演のネタにしてみんなで笑えばいい。
うん、失敗だって何だって美味しい。
そんなふうに考えると、毎日のいろんな出来事がより輝いて見えるようになりました。
先天性全盲、30代の女として、今ここにいる。
これってある意味ではラッキーなことなのではないか。本気でそう思っています。そう、めちゃくちゃラッキーなんですよね、私!
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