みなさんこんにちは。早稲田大学の黒澤です!
今回は、「感動ポルノは悪、という悪」という連続企画の第2弾!テーマに沿って様々な福祉&映画関係者の方々にインタビューさせていただきました。
感動ポルノとは本当に悪なのか、何が問題なのか。
私にはまだ明確な答えが見つかっていません。
だからこそ、第一線で活動されている方々に取材をさせていただきました。
そこで第2回目の今回は、映画監督の佐藤隆之さんにインタビューをさせていただきました。「アンチ感動ポルノ」を掲げている佐藤監督に、「感動ポルノ」について迫ってみました!
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連続企画「感動ポルノは悪、という悪」
近年24時間テレビなどで話題に上がる「感動ポルノ」をはじめとする、障害者表象に関する議論。
福祉業界や映画業界の様々な方からご意見をいただき、勉強させていただくという企画である。
感動ポルノとは?
2012年にオーストラリアの障害者ジャーナリスト・コメディアンのステラヤングが「TED」にてこの言葉を使って、健常者からの障害者に対するイメージ・見方を批判した。
彼女が述べたことはつまり、障害という「負」であり「悪」であるものがあるにも関わらず、立派に生きているという「理想化」された見られ方が存在しているということである。
現役タクシードライバー×ドキュメンタリー映画監督の佐藤隆之。過去にはテレビ局でドラマ制作をされていた経歴をお持ちの監督だ。監督の主な作品は『kapiwとapappo〜アイヌの姉妹の物語〜』や『ラプソディオブcolors』。
それぞれ「アイヌ」「障害」を題材にした作品。それだけ聞くと社会問題を題材にしているように見えるが、この作品はそこにいるそのままの人間模様にフォーカスした作品であり、社会問題とはなんなのか私も根本的な部分をよく考えさせられた。
その真意はなんなのか解明するべく、今回お話を聞いてみることにしました!
佐藤隆之監督のご紹介
佐藤隆之(さとうたかゆき)1961年山形県鶴岡市生まれ。
関西で育つ。東京在住。父親は大工。JAZZと酒をこよなく愛する。
これまでのご活動
大阪芸術大学映像計画学科中退。在学中に8mm作品を3本製作。大学中退後フリーの助監督として、大林宣彦、黒木和雄、鈴木清順、廣木隆一、堤幸彦などの監督作品に参加。
34歳、テレビ東京「きっと誰かに逢うために」で監督デビュー。深夜枠テレビドラマ、DVD作品、ネット配信作品など約20本で監督・脚本。オリジナル脚本がサンダンス映画祭、函館イルミナシオン映画祭にノミネートされる。
45歳でタクシードライバーに転職。その後個人製作ドキュメンタリーに転じる。
2016年秋ドキュメンタリー作品『kapiwとapappo〜アイヌの姉妹の物語〜』を渋谷ユーロスペース、レイトショーにて公開。『ラプソディオブcolors』(2021)が長編ドキュメンタリー2作目。
『ラプソディオブcolors』
『ラプソディオブcolors』のあらすじ
映画の舞台はバリアフリー社会人サークル「colors」
ここでは大学教授による講義、音楽フェスティバル、エスニック料理や楽器作りのワークショップ、単なる飲み会など様々なイベントが開催される。
障害があってもなくても関係なく、受け入れる場だったcolorsだが、入居する建物の取り壊しが決まってしまうことに・・・
”<障害>と<健常>のあいだ 全ての人がマイノリティ”
を描いた本作品。
ありのままの人間が映し出される。
アンチ感動ポルノ
佐藤監督は『ラプソディオブcolors』において「アンチ感動ポルノ」を掲げている。
<障害>と<健常>のあいだ すべての人がマイノリティ
作品のポスターにこう書かれていた。障害者と健常者を明確に分けることによって生まれる感動ポルノ。この明確な区分を否定するのが佐藤監督の言う「アンチ感動ポルノ」である。
自身が日頃から思っていた障害の捉え方への違和感を「アンチ感動ポルノ」と言う言葉で表し、それを作品に昇華させているのだ。
監督が仰っていた中で印象的であったこと、それは「障害は属性のひとつであって障害と健常の境はないのである」ということだ。以下のように話してくれた。
「例えば
- 『性格がキツすぎて』
- 『金銭管理ができなくて』
- 『物忘れが多くて』
- 『足が一本なくて』
- 『縮れ毛で』
と言うように、障害は属性のひとつ。そこから、だから友だちでいられないorでも友達でいられると判断されていくのだ。
人と親しくなるために変に福祉のことを勉強しなくてはならない、救おうという気概がなくてはならないということは、全くない。つまり障害と言う属性にそんなに構える必要はないということだ。
例えば2歳の赤ちゃんであればこの『属性』は考えない。生きていく中で色々と学ぶからバイアスがかかっていくのだ。それはマイノリティとされる人や外国人に対するバイアスも同じことだ。実はそのバイアスとは非常に勝手なものだ。」
感動ポルノとは善か悪か?
「善だとも悪だとも思わない。」が監督の答えであった。
商業的にはできるだけ多くの人にアピールできた方がいい。例えば感動ポルノというとよく引き合いに出される「24時間テレビ」。これの目的は寄付金を集めることである。
この寄付金は、地域の福祉団体に寄付されるなど、多くの社会貢献に使われる。だからより多くの寄付金を集められた方がいい。そのために感動ポルノと言われるような演出で人々に受け入れられやすい形で伝えることは、今は必要なのだと監督は語る。
感動した後に行動があるか
「感動」だけをとれば根本的には大切なことだ。しかし実際には、映像作品は自分が体験したことではなくバーチャルでしかないのも事実。
そのため、それだけで「学べた。成長した。」というのは違うのではないか。知らないことを知ることはとても大切だけど、本来は違うはずだ。
確かに、映像作品から自分が関わりがない世界のことを知識として知ることはある程度なら可能である。しかしながらそれを知って、勇気をもらって、感情が動かされて、さあどうする。と言うことになると実際に何か変化を起こせる人はきっと少ない。
映画で伝えるということ
「映画はメディアだと思いますか?」
佐藤監督にこう聞かれた。私の答えはイエスであった。現在上映されている映画は、情報をえることができるという点で、機能的にはメディアでないと言い切れないからだ。
しかし佐藤監督の答えは真逆で、次のように語ってくれた。
「映画は本来メディアではないし、メディアであってはいけないのである。つまり彫刻や絵画と同じ『芸術表現』であるべきであり、シンプルにした方がいいのである。映画は産業だけど、彫刻を彫る人はマーケティングのことを考えながら制作を続けていくことはないだろう。
映画もそれと同じことである。メディア=伝えるもの/芸術=表現。だから芸術はわかりにくくていいし、極めて個人的なもので良いはずなのだ。みんな分かっってください!ということで作品を作っているわけではない。
フィクションは商品だが、ドキュメンタリーは商品じゃなくていい。(もちろん金銭的には商品にするべきだが)」
では佐藤監督は何を個人的に表現しているのか。
それは「自分」だったのです。
他の何をではなく自分を、つまり自分の内面を芸術にどう結びつけるかを昔から考えていたという。佐藤監督は私が初めてお会いした時に「テレビは目的があるけれど、僕の映画には目的がないからね。」と語った。
きっとその時、このことを言っていたのだろう。芸術をするにあたって「〜のために」という他者に向けた目的は必ずしもいらないのかもしれない。
理想の障害者像と健常者像とは
障害のある方への過剰な配慮。例えば慮って「頑張ってますね」「生きづらいでしょ」なんていうのは余計なお世話なのである。
「弱くて可哀想で虐げられていて・・・」の障害者、「・・・それに対して優しく接する」の健常者。どちらもステレオタイプ。つまり、障害者に対するステレオタイプは同時に健常者に対するステレオタイプでもあるのだ。
障害者と健常者に区分される。行政的にはその区分は必要だが、表現においてそれをやる必要ない。
私は過剰な配慮によって、その方を不快にさせようと思っているなんてことは絶対にない。
きっと慮って色々と発言する人も不快にさせるためにやっているのではない。この発言の真意は優しさなのでしょう。
しかし過剰な配慮によって結果として不快な思いをさせてしまうことがある現状。この優しさは間違っていないと思うから、その前提にあるものつまりステレオタイプの正しさを問い直さなくてはいけないのだと思う。
明日そうなるかもわかんないんだから
先ほど述べたように、そもそも感動することは悪ではないし根本的には大切なことだ。しかしそこで満足してしまうことが悪なのだ。
そこには「私はそうじゃなくてよかった」という認識が裏に隠されているからだ。
「明日自分もそうなるかもわからないんだから」「歳をとってからそうなるかもわからないよ」は変な話である。そこには私はこっち側でよかったという、障害や老いへの「負」のイメージが前提となっている。
今後の障害者表象の可能性
実力向上には努力による比重が大きく、もしやりたいことが叶えられないのならそれは努力が足りないから。
人によってのスタートラインの違いは認識するべきだけど、その後の努力量はどんな人でも平等である。
これが私のスタンス。
厳しいことを言っているようだが、私は一番の「逃げ道」だと思っているのだ。つまり「才能」で全て片付けられてたまるかということである。
私は才能がないことを自覚している。だから努力が否定され、才能や運、生まれ持ってきたものだけで勝負をさせられたら、そんな酷いことを・・・と思うのである。
努力は才能に勝てるはずだ。努力次第でいくらでも変化が起こせるはずだ。そうであると信じたい。ということで、実力主義(=努力によって向上した結果)を肯定している。
しかし佐藤監督は、こうおっしゃっておりました。
努力してもどうにもならない人もいる。(体質のせいでどうしても痩せられないなど)。環境のせいで努力したくてもできない人もいる。
またそもそも必ずしも全員が努力をする必要はない。だからこの実力主義は黒澤が生きてきた人生の中で培われてきた独自の考え方なのである。それをどんな人にでも押し付けるのはいけないのではないだろうか。
今後のご自身の活動で目指していること
ステレオタイプを壊すこと、つまり障害者と健常者の「分ける」「敷居」を取り除くことだそうだ。それは<障害>だけに限らず「マイノリティ/マジョリティ」と言う意識そのものについても同様に。
最後にこのように語ってくれた。
「ただ、自分が全て正しいと言っているのではなく、今の自分の正解がここなのである。みんな一旦壁を外してドギマギしたりモヤモヤしたりした方がいい。ネットで人の心を操る時代。
その中では”分断”が様々な部分で進んでいる。それを『関係ねえよ!』と言って取り外してみるのもいいのではないか。学問というものは『違い』から始まるのである。ひまわりとたんぽぽはどう違いますか?という問いから始まるということである。
例えば大学の研究者による『アイヌ遺骨盗掘』問題。それは科学的探究心が人の心を失って暴走した結果起きたこと。また古くは職員が精神障害者を虐待した『宇都宮病院事件』、いまだに実像の見えない『やまゆり園事件』、そして入国管理センターでの非人道的扱い。
それぞれに異なった背景があるが、根を辿ると<科学的選択=カテゴライズ(差別化)>の弊害に行きあたる気がする。その『学問/科学的思考』を疑ってみることも大事ではないか。」
佐藤隆之監督のインタビューを終えて
今回の取材を通して、障害者と健常者という区分をすることを肯定する自分がいることに気がついた。もちろんそれが必要な場面があることは十分承知している。
しかし、この区分が上下関係を生む可能性もある。
だから「障害者」「健常者」の敷居は本当は無いんじゃないか?と言う可能性も自分には持っておくべきだと思いました。
自分以外の他者との関わり方はすごく難しく、正しさなんてわからないけどその場において「疚(やま)しさ」だけは持たないようにしていたい。そうすることで本来のフラットな関係構築を常にできる人間でいたい。
佐藤監督が考えているのは、自分の内面を芸術にどう結びつけるかであり、啓蒙的なことをしているのではないと語るが、それでもなおさらと言うのか、監督の作品からは多くのことを考えさせられた。
「障害者」「健常者」とはなんなのか。「すべての人がマイノリティ」とはなんなのか。現代において多くの人が考えるべき命題だろう。
また最後に、「感動ポルノは悪、という悪」というテーマで言うならば、私は表現という場において誰が何に気を使わなくてもいいんじゃないかとも思った。誰が誰のためにそれをするのか。構造的なところも考えていきたい。
佐藤隆之監督HP
『ラプソディオブcolors』HP:https://www.rhapsody-movie.com/
『kapiwとapappo〜アイヌの姉妹の物語〜』HP:https://www.kapiapa-movie.com/
連載シリーズはこちら
→ 感動ポルノは悪、という悪
黒澤
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