みなさんこんにちは!お久しぶりです。早稲田大学の黒澤です!
さて、本日より表題の通り「感動ポルノは悪、という悪」という連続企画をさせていただきます!テーマに沿って様々な福祉&映画関係者の方々にインタビューさせていただきました。
私にはまだ明確な答えが見つかっていません。
だからこそ、第一線で活動されている方々に取材をさせていただきました。
そこで第一回目の今回は、映画監督の今村彩子さんにインタビューをさせていただきました。生まれつき耳の聞こえない障害当事者でもある今村監督の考え・世界観に触れてみてください!
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連続企画「感動ポルノは悪、という悪」
近年24時間テレビなどで話題に上がる「感動ポルノ」をはじめとする、障害者表象に関する議論。
福祉業界や映画業界の様々な方からご意見をいただき、勉強させていただくという企画である。
感動ポルノとは?
2012年にオーストラリアの障害者ジャーナリスト・コメディアンのステラヤングが「TED」にてこの言葉を使って、健常者からの障害者に対するイメージ・見方を批判した。
彼女が述べたことはつまり、障害という「負」であり「悪」であるものがあるにも関わらず、立派に生きているという「理想化」された見られ方が存在しているということである。
プロフィール主にドキュメンタリー映画を撮られており、代表作に『珈琲とエンピツ』(2011)、『Start Line』(2016)、『友達やめた。』(2020)などがある。監督は生まれつき耳がきこえない。監督の撮るその作品に障害を強調するメッセージは用いられていない。それがとても印象的であった。たまたま『Start Line』を観させていただく機会があり、パッケージを見た時に正直「これは感動ポルノ要素の詰まった映画だな」と思っていた。しかし実際に作品を観ていくと、障害者と健常者の「違い」を感じさせられない不思議な感覚になった。
今村彩子監督ご紹介
映画監督・Studio AYA代表。愛知県名古屋市生まれ/B型
芋けんぴと散歩と猫が好き。趣味は読書。
現在の活動をするようになったきっかけ
映画との出会いは小学生の時。当時字幕放送がなくテレビ番組を楽しめない今村さんに、お父さんが『E.T.』の字幕付きビデオを借りてくる。
初めて内容を理解でき、作品に深く感動。「いつか、多くの人に勇気や元気を与えられるような映画を作る監督になりたい!」と言う夢を持つようになった。
『Start Line』パンフレットより引用
これまでの活動の経緯
愛知県教育大学教育学部在学中にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校に留学し、映画制作を学ぶ。大学卒業後、自ら映像制作スタジオを設立し数々のドキュメンタリー映画を制作。
2001~
きこえる人が偏見・差別をするのは意識的なものではなく、きこえない人と交流がないため偏った情報で判断してしまうことによるものである。それならば映像の持つ魅力で、きこえない人との活動、日常生活、考えていることを伝えていこうとお思いカメラを回した。それを生涯の仕事にしたいという気持ちが強くなった。
2016~
『Start Line』はターニングポイントとなり、そこから伝えたい内容が変わった。『友達やめた。』では、アスペルガーの友人とどうしたら仲良くなれるのか探したいと思い、カメラを回した。その方が結果として20代の時に制作したきこえない人のことを伝える作品より、お客様には自分に重ねて観るようになったと言う。
『Start Line』から見る感動ポルノの本質
ここで本作本を少し紹介させていただきます。
あらすじ
”聞こえない映画監督”今村彩子が2015年夏、自転車で沖縄→北海道の日本横断の旅に出る。荒天、失敗に次ぐ失敗、”きこえる人”とのコミュニケーションの壁に、ヘコみ、涙し…それでもひたすら何かを探して走り続ける。
彼女の姿を追うのは、伴走者にしてカメラ撮影を担う”哲さん”。相手を思うが故の容赦ない言葉に、何度も一触即発の衝撃が訪れる。
そして聴力を失ったサイクリスト、ウィルとの奇跡的な出会い…人生の旅そのものの3,824km。果たして彼女は最北端の地に何を見るのか?
作品説明
生まれつき耳の聞こえない映画監督が、自転車で沖縄→北海道日本横断の旅へ。
コミュニケーションの壁にヘコみ、涙しながらも走り続ける57日間の記録。
伴走カメラマン哲さんの叱咤激励、聴力を失った旅人ウィルとの出会い…
日本中のためらう人に見てほしい一篇の勇気のおすそわけ。
『Start Line』公式サイトより引用
感動ポルノではない理由
なぜパッケージを見た段階では「障害者が頑張って、勇気や希望を伝える」という感動ポルノ的なメッセージを感じたのに、作品を観ると感じなくなかったのか疑問であった。
その理由について考えてみることにした。
「私は障害者を感動的に描くのは好きではないので、もともとそう言うものを作る気はありません。
それよりも聞こえない監督が伴走者にずっと叱られっぱなしなので、観る人がだんだん重たい気持ちになってしまわないかと言うことを心配していました。」
聞こえないからできない、でも頑張っている=感動ポルノ
なぜ感動ポルノ要素を感じなかったのか、想定される理由は2つ。
- 聞こえないからできない、ではない
- 同じ人間(障害の有無に関係なく)である
と言うのが作品から伝えわったからではないか?と今村監督は言う。
聞こえないからできない、ではない
「聞こえないからできないのではないということをウィルに出会って気づきました。ウィルは中途失聴で外国人。
それにもかかわらずこの日本の地で一人で自転車旅をし、私より遥かに人々とのコミュニケーションを楽しんでいるんです。
つまり、このウィルの行動によって耳が聞こえないからできないという方程式は崩されることになったんです。それがお客様にも伝わったから『聞こえないからできない、でも頑張っている=感動ポルノ』という風に受け取らなかったのでは?」
同じ人間(障害の有無に関係なく)である
「それは黒澤さんが私を対等な同じ人間として見ているからじゃないですか?やってもらうのが当たり前、やってあげるのが当たり前だと思っていないから、もっと頑張れよと思うし、そこは違うんじゃない?と思えるのでしょう。
もし黒澤さんが私(今村監督)のことを『障害者』として特別扱いして見ていたら哲さんに対して、なぜそこまで怒るんだ!と批判する気持ちが強くなるんじゃないかと。
この作品では、自分の弱いところも曝け出しすぎて嫌われるかなとすごく怖かった。(笑)
でもそれが逆にきこえる人にも共感され、同じ人間なんだと思って貰えたのだと思います。感動ポルノは自分と当事者の間に距離がある描かれ方をしています。
障害者は別の世界の人で、自分とは関係がないみたいな。そうではなくこの映画は、人間なら誰もが一度は悩んだりぶつかったりすることを描いているので、自分事として見て貰えたのかもしれないですね」
理想の障害者像への期待
”感動の対象”や”哀れむ対象”という障害者の理想像。見える差別は少なくなってきているが、上記のような見えない差別が多いから厄介なのだと今村監督は言う。
「”耳が聞こえないのに”こう言うことできるんだね!すごい!」この言葉は何度も言われてきたと言う。
けれどきっとこう発言した相手には全く悪意はないのだ。正直「目が見えないのに料理できるの!?すごい!」と自身でも思うことはあるそう。
だから人がこのようなことを思うのはある種当たり前であり、仕方がないことでもあるのかもしれないのだ。
見えない差別への違和感に気づく
それではどうすればいいのか?
以下のように語ってくれました。
「『〇〇なのにすごい』と思った時に自分の中に『違和感』を持ち、考えることが大切だと思います。なぜ耳がきこえない人のことを『すごい』と思ったのか、なぜ目が見えない人のことを『すごい』と思ったのか。
見えない差別に気づくチャンス
私自身もこんなことがありました。私が店員さんに質問した時、耳がきこえないことがわかると店員さんはその隣にいる、きこえる人に向けて答えるんです。
その時私は自分を一人前の人間として扱って貰えていないと思い悲しくなります。どんな人でも一度立ち止まって、自身の思ったことや行ったことを掘り下げて考えてみることが重要ではないでしょうか。」
- 「負」としての障害イメージ。
- 理想化された「勇敢・善人」としての障害イメージ
これができないから劣っていると言うのが前者、それなのに頑張って戦っていて偉いというのが後者だ。真実かどうかは別として、持っているイメージに潜在的な考え方が反映されているのだろう。
感動ポルノは善か?悪か?
「感動ポルノを感じる作品は、好きではないです。」
ただおっしゃっていたのは、感動ポルノと呼ばれるものは健常者だけのせいで作られているわけではないはずということだ。
『Start Line』の自転車たびの間、旅の伴走者である哲さんが「僕は彩さんの2倍疲れている」と言った。そう言われた時にどう思うかの違いが大きかったと言う。
もし障害のある方自身が対等な見方をしているのであれば、ハンデを加味した上でも後者の方になるはず。だから、障害者も相手のことを考える必要があるのだ。
感動ポルノが作られる原因は障害者にもあり?
障害のない人が障害のある人に「やってあげるのが当たり前」、障害のある人が障害のない人に「やってもらうのが当たり前」と双方に思うから「障害者=保護対象」として見られ、感動ポルノ的な風潮が広まっていくのである。とこのように言うのである。
つまりは、障害者も感動ポルノの原因を作っている可能性があるということ。意識していなくても潜在的に「やってあげるのが当たり前、やってもらうのが当たり前」と言う認識があるかもしれない。
ただ自分は「相手に100%求めるのではなく、自分も障害がある前に一人の人間として行動したい」と今村監督は述べる。
自分の思考が映る鏡
障害者はかわいそうで守られるべき対象という価値観。障害者を上から目線で見ている健常者…。自分と異なることについて、正直簡単に受け入れられないものは誰にでもある。
それを見たときに自分がどう思うか少し意識してみればいいのである。映像作品は鏡だ。自分の潜在的な考え方が見えてくるから面白い。何に違和感を持つか、何に共感をするか確かめるには絶好の機会である。
今後の障害者表象の可能性
「感動」や「かわいそう」という理想像。またフィクション作品では障害者は「助けられる人」という役どころになりやすい。だからその概念を覆すような善人以外の悪役があってもいい。
また題材に必ずしもする必要もない。バリバラの実験で主要な役や意味のある役ではなく単なる店員として障害者が出演し、その映像をどう思ったかアンケートを取るという回があった。
視聴者の中には、障害者が演じていると理由があるのかなと思ってしまい主役の会話に集中できなかったという人もいれば、障害のある店員がいても気にならなかったという人もいた。
障害者もエキストラとして出演させるのがいいのではないか。そしてそれを続けていけば視聴者も自然に受け止めて障害者がいることが「普通」になっていくのではないか?と今村監督は言う。
今後のご活動
「『Start Line』も『友達やめた。』もセルフドキュメンタリーで自分の葛藤から始まり、自分の視点で物事を考え、制作した作品です。それでは『自分の見方・感じ方』と言う狭い範囲にとどまってしまいます。
だから、次はセルフドキュメンタリーから卒業し、他者を自分と切り離して徹底的に見つめたいと思っています。」
でも、これから幅広い表現に挑戦されていくということで、私自身1ファンとして非常に楽しみです。
今村彩子監督インタビューまとめ
今回今村彩子監督に取材をさせていただき感動ポルノの構造が少し具体的になった気がした。個人の自由な考えを認めた上で、それの正当性を確認していくことが重要なのだとわかった。障害者を題材にした映像作品の写鏡としての可能性を大いに感じた。
今村監督の作品の中に『響いて〜名古屋WZ公演の舞台裏〜』(2003)という作品があります。
耳がきこえない方で結成するアメリカのダンスグループ「ワイルド・ザッパーズ」の公演を見て、映画に出演する平野さんと言う女性はこうおっしゃっていた。
「みんな聞こえないのに踊っている。すごいもう感動して今までのモヤモヤしていた気持ちがパーッと明るくなった。他にも悩みを抱えている人がいっぱいいる。その人たちにも見せてあげたいなと思って。」
感動ポルノとは何か。「〇〇なのに頑張っている」本文中にも出てきたフレーズではあるが、ではこれは感動ポルノなのか。誰かが誰かに感動を与えることや人が何かを表現することの奥深さを感じた。これからさらに考えていきたい。
今村彩子監督HP
映画監督 今村彩子|Studio AYA Official Web Site:https://www.studioaya.com/
連載シリーズはこちら
→ 感動ポルノは悪、という悪
黒澤
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大変意欲的な問題提起だと思います。私も障がい者がメディアに取り上げられるとき、感動的に取り上げられることを一概に否定したくはありません。ただ、当事者運動のなかで感動ポルノが否定的に捉えられるようになったのは、「私たち抜きに私たちのことを決めるな」という主導性を回復しようという流れのなかで考える必要があると思っています。黒澤さんも、「感動ポルノは自分と当事者の間に距離がある描かれ方をしています」ということは理解されているようですね。恐らく、そこが問題なのでしょう。制作者と当事者との距離が短いほど、「感動ポルノ」として批判される面は薄れていくといってもいいのではないでしょうか。今村監督の2作品は、私も観ました。今村監督が黒澤さんのインタビューに答えて、<もし黒澤さんが私(今村監督)のことを『障害者』として特別扱いして見ていたら哲さんに対して、なぜそこまで怒るんだ! と批判する気持ちが強くなるんじゃないか>と答えられていますが、私自身は、哲さんい対して「なぜそこまで怒るんだ」と思いました。「特別扱い」ではなく、合理的配慮は必要だからです。『友達やめた。』では、今村監督自身が、発達障がいのある友人に対して、嫌なところにも遠慮なく指摘するべきか、支援差として目をつぶるべきか、距離を置くべきかで悩んでいました。そのように、相手の情況に応じて関係性を変えていくことが現実的な対応なのだろうと思います。私自身は、障がい当事者の方と意見交換をしたわけではなく、健常者の立場から考えたことを書いたので、この考え自体も「感動ポルノ」になってしまうかもしれませんが、黒澤さんは、今後も様々な当事者と意見交換しながら,、このテーマの考察を深めていかれることを期待しています。
「感動ポルノは悪、という悪」という刺激的なタイトルにひきつけられて読んでしまいました。
そういう意味では、このネーミング、成功かもしれませんが、
よんだら、全然、【感動ポルノは悪、という悪】という話ではなく、
やはり、感動ポルノは否定されていました。
ま、それでいいし、そうにしかならないと思うのですが、『看板に偽りあり』ですよね。
まあ、インタビューは面白かったので、悪くはないのですが(笑)