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車いすファイター石野慶

 

 

名前 石野 慶
ふりがな いしの けい
趣味 サッカー・バスケットボール・小説を書くこと
ブログ  白鳥おじさん

 

僕の歴史

気が付くと病院のベッドにいた。そして、その横には車イスが置いてあり、

 

これは誰のだろうか?

 

と、僕は思った。

 

まさか俺のじゃねえよな

 

そんな事を考えながらいると、看護師さんが来て、

 

石野さん、お散歩に出かけましょうか

 

と言われた。それから他人の物だと思っていた車イスに乗っけられ、テクテクと歩き始めた。ん?これは自分用なのか。それからボンヤリとしながらも記憶の糸を辿ってみた。

 

なんで俺が障害者に…

さて、小説的な幕開けをした所で本題に入る。2019年、現在37歳の私は何を隠そう身体障害者だ。遡る事約5年前に大病を患い死の淵を彷徨った。それまで健常だった私が病気をしたのは忘れもしない2014年6月9日。32歳の頃である。

 

当時、「学校の先生」を目指していて勿論仕事もして恋愛もしてサッカーもしてという物凄く忙しい生活をしていた。それこそ休む暇などなかったが、夢も希望も傍にいたので充実していたし、何より楽しかった。そんな生活から一変してどん底に突き落とされた。今思い出してみても、あの頃は辛い。辛くて苦しくて悔しくて涙が溢れる。

なんで俺が、なんで俺が、なんで俺が

 

何度も思った。

 

だけど、いつまでも己の身に降りかかった不運を嘆いていても、前へ進めない。それに障害を持っちまったもんはしょうがねえ。まあ、そんな風に思えたのは病後2~3年してからだけど。最初の頃は酷かった。先ほども述べたが「なんで俺が」状態がしばらく続いた。

 

しかし、元々大のアクティブな負けず嫌いの頑固野郎であった。そう、病気前の私は…。

 

私が生まれたのは1982年5月。昭和の終盤だ。少年時代は兎にも角にもヤンチャで、サッカーに夢中で毎日毎日ボールを蹴っていた。当時はJリーグが創設した事もあり、日本中がサッカー熱で沸いていた。「猫も杓子も」とは言ったものだがそんな感じだろうか。

名作「スラムダンク」がきっかけで

ちなみに、当時の住まいは横浜市青葉区。ところが小学校6年になる時、埼玉の所沢という片田舎に越した。この移住が私の運命を大きく変えた。

 

所沢に来た私は早くも校内で人気者となった。

 

サッカー小僧がやって来た!

 

と言われ、新しい学校で新しい生活を送った。

 

ちなみに当時の夢は、当然プロサッカー選手。

 

普通の少年が普通に抱くモノである。毎日、ほぼ毎日友達とボールを蹴っていた。あの頃のことは今も強く記憶に残っている。

そんな、どこにでもいるサッカー少年だった私に、ある日衝撃が走った。それは・・・

 

スラムダンク』。井上雄彦氏による大ヒット漫画。これを読んだ私はサッカー漬けの毎日からバスケ馬鹿になった訳である。

 

中学の3年間は私にとって恐らく、一生涯忘れることが出来ない時期だと思う。それ程まで濃密だった。先述したバスケに対しては相変わらず夢中で取り組んだ。部活動という舞台で。しかも、当時はバスケの神と呼ばれるM・Jことマイケルジョーダンが現役で活躍していた事もあり、日本でのバスケ人気は非常に高かった。

 

今でこそ、日本でもBリーグというプロが誕生したもののまだまだ知名度は低い。一方、本場アメリカのNBAは世界中で名の知れたバスケ界の最高峰だ。私達も、こぞってNBA選手の真似をした。

 

そんな中学生活を送っていた当時13歳~14歳の自分。バスケ以外にもロック音楽にハマり、エレキギターを始めた。日本のミュージシャンから海外までありとあらゆる音楽を聴いた。

 

バスケ、音楽、学校生活・・・。良いことも悪いことも含めて、私の中で中学時代=黄金時代であった。今でも、当時の友達とは深い絆で結ばれている。彼らには絶対的に幸せになって欲しい。同じ学び舎で過ごした仲間達。この先2度と会わない連中もいると思うが、いや大半がそうであろう。

 

高校ではキラキラした青春とやらを送れなかった。なのでここには書かない。

 

大学を5ヶ月で中退し、怒涛の社会人生活

卒業後、私は某大学に入るが、まさかの5か月中退という奇抜な行為に出る。若気の至りとでも言えばいいのか、当時は学業よりも遊んでいる方が楽しかった。そして、大学を辞めた私はすぐに働き始める。友人の紹介で入った建設会社で私は金を稼ぎ始める。

職種は住宅基礎工事。日当一万円。まだ二十歳前後の自分には多すぎる収入だった。だが、それだけに厳しい職場で、親方衆に何度怒鳴られたか。とりあえず毎日怒号が飛んでいた、親方衆の。

 

現在は、パワハラだのなんだのと言われているので、指導する側も気を遣う世の中だ。それはそれで勿論良いことだし、時代の流れだからしょうがないけれど、自分的に、職人の世界では怖い親方が幅を利かせてほしい。まだ未熟な若造くらいには怒鳴っている方が丁度いい。まあ、こんな事言うと若者から笑われそうだが。

 

時代錯誤」かもしれないけれど、一応昭和生まれの私としてはそう感じずにはいられない。

 

さて、話が少し逸脱したので本題へ。現場仕事を3年続けた私にはある程度の貯蓄があった。そのお金を元手に一人暮らしを始めた。場所は「高円寺」。雑多な文化が交錯している街だ。当時プロのミュージシャンを目指していた20代前半、私は高円寺で音楽活動をする…つもりだったが、バイトの方が忙しかった。ちなみに、その頃私は人気ラーメン店で週五回、1日8~9時間勤めていた。ほぼ正社員だ(笑)でも、楽しかったので良かった。

 

何事も楽しいのが1番だ!仕事にせよプライベートにせよ。だから折角東京進出までして音楽活動をしようと思っていたが、バイト中心になってしまったことを少しも後悔していない。

 

それから暫くの間、音楽にしがみつく。幾多のオーディションに参加したり路上ライブをしたりと、一応プロのミュージシャンを目指す。と共に教師への道を模索し始める。

 

学校の先生を目指していた矢先に…

私が本格的に「学校の先生」になろうとし始めたのが27歳の時だった。その頃には完全に音楽は「趣味」へと変化していた。上には上がいると、痛感したからだ。「好き」という思いはあったが、「好きなことでメシを食う」のは難しい。好きな音楽の嫌な面も見えてしまう。そういう思いを抱いてまで私はプロになるつもりもなく、あっさりと方向転換をした。私は「熱しやすく冷めやすい」のだ。

 

何はともあれ、人生の目標を変えた私はすぐさま教師への道を探す。とは言っても、前述した通り大学は以前速攻で中退したので教員免許は当然持っていない。

 

そこで本屋に行き、「社会人から先生になる手段」とかいうタイトルの本を買い、必死で読んだ。読んで読んで読みまくった。

 

ちなみに当時、私は港区にある某企業で働いていた。港区といえば芸能人やらスポーツ選手などが多く住んでおり、自分が担当したお客さんも日本国内でその名を知らない者はいないぐらい有名な方がいた。名前は伏せるが…。

 

さて、先程の「先生」の件だが、働きながら教員免許を取得する方法として「通信制の大学」で学ぶのがお勧めだと言う事が分かった。

 

しかも、一般の大学と比較してべらぼうに安いのも魅力の一つ。ただ、通信大学は入るのは容易だが、その一方で卒業するのがとても難しいという難点もある。だが、私は構わず入学願書を提出した。気合いは十分だった。

 

ところで、これは多くの方が誤解しているが、通信大学というのは自宅学習のみだと思われるがそれはとんでもない。卒業に必要な単位は124だが、そのうちの半分程は通学して授業を受ける必要があった。しかも名目は「社会人の為の大学」なので、休日や夜間などことごとく学校側は授業やら試験やらをぶち込んで来る。それに自分は教員になる為に教職の授業も受けていたので150だか160くらいの単位を取らなければならなかった。

 

分かっていたが、それは想像以上にキツかった。仕事と学業の両立というものは。

 

だが、私は諦める事なく食らいつき、目標の教師へ向けて爆走していた。

 

しかし、運命というものは誠に皮肉である。学校の先生を目指して4年、遂に私は教育実習の大舞台に立った。母校(高校)で先生気分を味わいながら必死に奮闘していたまさにその最中、私は突然の病に見舞われノックアウトした。病名は「脳炎」。とても重い病だ。

 

その後、神奈川の某病院で長期入院をした私は、後遺症で身体に障害を持った。いわゆる「身体障害者」である。32歳の話だ。それからは暫く己に降りかかった悪夢を受け入れるのにだいぶ苦悩した。いや、正直に言うと今も受け入れられていないかな。だが少なくとも病気当初よりは随分前を向くようになった。

 

2019年、現在37歳。まだまだやりたいこともある。夢も希望もある。そんな訳で、私は今後も生きていく。勝負もしないで諦めるなんて言語道断である

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